わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い
(マタイ11・25~30)
川越教会担当司祭 ヨハネ 加藤 智 神父
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、
わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負い
やすく、わたしの荷は軽いからである。」
人生に悩み、疲れを覚え、あるいは後悔や絶望の中に蹲(うずくま)っていた時、この主キリストのみことばに慰め
られ、再び立ちあがる勇気を与えられた方は多いのではないでしょうか。しかしこれは、実は不思議な主のおことばで
はないでしょうか。
人生に、負うべき「軛(くびき)」や「重荷」が無ければと、私たちは願います。しかし、弱く、限界があり、加え
て、神と人とに対する罪や負い目から自由ではない私たちにとって、「軛」あるいは「重荷」、即ち、「私たちの十字
架」をまったく負うことのない人生、否、むしろ、「私たちが、本来負うべき十字架」を負おうとしない人生は、か
えって自らと他者を、さらには神をも、欺(あざむ)くものではないでしょうか。
もちろん、「神の子キリストが、負わねばならない十字架」というようなものがあるはずはありません。しかし、
「弱く、罪に汚れた私たちが負うべき十字架」を、主キリストは、私たちに「あなたの軛、あなたの十字架」とは仰
せにならず、驚くべき事に、それを「わたしの軛」、「わたしの荷」、即ち「わたしの十字架」と仰って下さいます。
その上で、本来は私たちが負うべき「私たちの十字架」を、主キリストは私たちに、ご自身と共に、「わたしの軛」
、「わたしの荷」、即ち「わたしの十字架」を、一緒に負ってくれないかと仰せになっておられるのです。私は、
この主のおことばに私自身の言葉を失います。ただ、主のみ前に首(こうべ)を垂れ、合掌させて頂くのみです。
ところで、主キリストのこのおことばは、ペトロはじめ12人の使徒たちをお選びになり、彼らを「神の国の福音」
の宣教に遣わされるに際して、彼らに語られた主のおことばです。実は、主キリストは、弟子たちを町や村に宣教に
遣わされるに先立って、あらかじめご自身で、全ての町や村を訪ねておられました。マタイによる福音は、そのこと
を、次のように伝えています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、ありとあら
ゆる病気や患いを癒された。」(9・35)
ただしその時、それらのすべての町や村で、主キリストがご覧になられた、他でも無い「私たち」は、どのよう
な様子だったのでしょうか。マタイは続けます。
「(主キリストは)、群衆(即ち、私たち)が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、
深く憐れまれた。」(9・36)
ここで「打ちひしがれている」とは、最近のフランシスコ会訳聖書のように、むしろ「倒れている」、さらには
「死にかけている」と強く訳すこともできる言葉です。
これが、主キリストが使徒たちを「働き手」としてお遣わしになられるに先立って、ご自身の目で確認された、
「飼い主のいない」「私たち」の姿です。しかし何故、私たちには「飼い主がいない」のでしょうか。実は、「飼い
主」はいるのです。それは、神です。私たちに「飼い主がいない」のではなく、私たちは「飼い主である神の許から、
自分で離れて」しまったのです。その結果、「弱り果て、打ちひしがれて」いたのです。誰のせいでも無い、私たち
自身の愚かさゆえに。あるいは、罪ゆえにです。
主ご自身で確認された、「飼い主を失い、弱り果て、人生の途上で倒れているような」私たちと、私たちの人生の
現実ゆえに、主キリストは、12使徒をお選びになり、宣教、否、むしろ司牧に遣わされたのです。マタイは、さらに
続けます。
「そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さ
るように、収穫の主に願いなさい。』」(9・37f)
「収穫は多いが、働き手が少ない」と、主キリストは仰せです。ただし主は、何を、否、誰を「収穫」されるので
しょうか。私たちが羨むような物、あるいは、私たちと違って知恵と徳に優れた人々でしょうか。そうではありません。
「飼い主を失い、弱り果て、人生の半ばで倒れ、最早自分で立ちあがる事のできない」私たちを、です。
主キリストは、このような私たちを、父なる神から与えられるかけがえのないご自身の宝(ヨハネ10・29)として、
大切に「収穫」して下さるのです。私たちの弱さと罪の一切をご自身の十字架として負い抜いて下さる事によって。
主キリストは仰せです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。…私の軛は負いやすく、わ
たしの荷は軽いからである。」
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
(教会報「いづみ」2017年7月、602号巻頭言より)