新しい年をマリアさまとともに:神の母聖マリア
「マリアさまはこれらの出来事をすべて心に納め、思い巡らしていた」

ルカ2・16~21

川越教会担当司祭 ヨハネ 加藤 智 神父


  クリスマスの夜、天使のお告げを受けた羊飼いたちは急いで行って、マリアさまとヨセフさま、そして飼い葉桶に寝 かされた乳飲み子イエズスさまを探し当てました。彼らは、その光景を彼ら自身の目で確かめ、主イエズス・キリストを 礼拝した後、幼子について、彼らが天使から告げられたことを人々に知らせました。しかし、聞いた者は皆、羊飼いたち の話に戸惑い、不思議に思いました。そのような中で、
  「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」
  と、ルカによる福音は伝えます。福音は、この時と同じマリアさまのご様子を、後に主キリストが12歳になられた時 の過越祭に、主キリストとともにマリアさまがエルサレムの神殿に詣でた際のエピソードの結びにも伝えています。

  羊飼いたちが天のみ使いに告げられた事のみならず、主キリストの出来事は、人の目には不思議に見えます。確かに、 神のなさることは、預言者イザヤの語るように、人の思いや考えを超えています。イザヤは告げます、「わたしの思いは、 あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、 わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」

  預言者を通して、このようにあらかじめ語られていた神のみことばにもかかわらず、人々は、後にイエズスさまにつ いて正しく理解できないままに自分たちの判断でイエズスさまを裁き、結果として主キリストを十字架につけてしまいます。

  マリアさまは違います。主キリストのおことばとそのみ業を、それらの不思議のままに一切を「すべて心に納めて、 思い巡らしていた」と、福音は伝えます。

  母としてイエズスさまを身籠り、産み、養い育て、つねに主のお側に生活しながらも、主キリストは不思議であり、 マリアさまの思いや考えをさえ超えておられたことでしょう。しかし、マリアさまはイエズスさまについて、ご自分の 思いや考えで判断するようなことは決してなさいませんでした。すべてをそのお心に大切に納めて、神ご自身がマリア さまにその一切を明かされる時まで、静かに待っておられました。「思い巡らしておられた」とは、そういうことだと思います。

  なぜなら、マリアさまはイエズスさまを素直に、素朴に信じておられたからです。こどもをそのように信じる。こ れは、母の子に対する愛であり、あるいは母にしかできないことかもしれません。母を失った私は、このことを強く思います。

  私は、英国国教会から日本のカトリック教会に司祭として移籍させて頂いた2011年の12月に、私自身の母を天に送りまし た。実は1月1日は、母の誕生日です。母は生きていれば、今年86歳になります。私は、母の臨終の病床で、母にカトリックの洗 礼を授けましたが、1月1日神の母聖マリアさまの大祭日に生まれた母に、母の霊名は迷わずマリアといたしました。

  母の願いや期待どおりに生きてきたとは、到底言えない私でした。それでも、母はいつも私を信じ、支え励まし続けてくれ ました。イエズスさまと母マリアさまを、私と私自身の母に当てはめて考えることは、もちろん出来ません。が、マリアさまが 、イエズスさまの母であるがゆえにおできになられたこと。それは、いかなるときにも素直に、素朴に御子イエズスさまを疑う ことなく愛し、信じ抜かれた、と言うことではなかったでしょうか。ご自身をそのままイエズスさまに委ねて行かれると共に、 全く私心なく、一筋に御子キリストを信じ、支え抜かれた。それが、神の母マリアさまであられたと、今の私には思われてな りません。

  新年の初めに、このように母マリアさまを想い起こさせて頂くのは、まことに相応しいことです。神が年の初めに私たちに お求めになられておられること。それは、母マリアさまのイエズスさまへの聖い愛と信仰と信頼ではないでしょうか。

  教会は、マリアさまのことを、感謝を込めて「神の母」と呼ばせて頂いて来ました。神の母であられるマリアさまを、 ご聖体の主なる神なる主イエズスさまをお納めする「ご聖櫃」ともお呼びして来ました。母マリアさまは、丁度「ご聖櫃」 のように、ご聖体の主キリストをご自身の内に、いつも大切に抱き、納めておられます。

  母マリアさまは、御子キリストをご自身の内にいつも大切に抱き納めつつ、実は、主キリストの愛の内に、むしろマ リアさまご自身こそ、大切に抱かれておられることを、マリアさまは至福の内にご存知であられたに違いありません。私たちは、 神の母マリアさまとともに新しい年を迎えます。

  父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。



(「主日の福音の黙想」より)



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