「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」
ご聖体と聖霊の黙想

ヨハネによる福音5・1~8

 川越教会担当司祭 ヨハネ 加藤 智 神父


  ヨハネによる福音は、主キリストの最後の晩餐での十二弟子への説教と祈りを、五章にもわたって、実に丁寧に伝えてくれています。上記の福音は その一節で、その内容から特に、主の「ぶどうの木のたとえ」とも呼ばれてきました。

  聖地を旅行された方は、お気付きと思います。ぶどうは乾燥した地で生育し得る数少ない植物です。しかもそのような地において、とりわけ豊かに水 分を蓄える事のできるぶどうは、日本でいう果物と言うよりも、乾燥した地の人々にとっては恵みの水とも言い得る、まことに貴重な植物です。

  主キリストは、私たちにご自身を「わたしはぶどうの木」と仰って下さいました。主のおことばには、水を求めて得られないような荒地において、 しかし、主は、私たちに豊かにいのちの水を与えることがおできになる、との主のおこころを強く感じます。

  「わたしはぶどうの木」と言われた主は、さらに私たちに、「あなたがたはその枝である」と仰って下さいました。「ぶどうの木」である主キリ ストに、「枝」として繋がらせて頂かなければ、生きることができない私たちであることを、主は良くご存知です。私たちは誰一人、いのちの水なし に生きることはできないからです。

  ところで、主キリストは続けて、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と、仰せに なっておられました。

  一つのことに気付きます。主キリストは、私たちをぶどうの木の「枝」であると仰っておられるのであって、「実」であると仰ってはおられません!

  主は私たちを、ぶどうの「実」ではなく、主のぶどうの木の「枝」としてくださいました。「枝」である私たち自身が、主なるぶどうの木からの 豊かないのちの水を受けて生きるのみならず、さらに「豊かに実を結ぶ」ためであると、主は仰せです。

  「ぶどうの実」は、私たちという「枝」を通して、「ぶどうの木」である主キリストからのいのちの水を豊かに蓄えるでしょう。私たちという「枝」 を通して多くの「実」が豊かに受けるのは、主のいのちです。

  ところで、私たちに、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と仰せになられた主キリストは、天の父なる神について、 「わたしの父は農夫である」と、仰っておられました。

  その上で、主は続けて、父なる神ご自身が農夫として、ぶどうの木の枝を手入れしてくださる。実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶ枝は、 さらに豊かに実を結ぶようにしてくださる、と仰せになられました。私たちは、どちらでしょうか。

  実は、主キリストは、決定的に大切なことを、私たちに仰せになっておられました。

  「わたしの話したことばによって、あなたがたは既に清くなっている。」

  「既に」。過去の、あるいは今後の私たちの様子を見て、と言うのではありません。主は、私たちに与えられたみことばによって、「既に」、 私たちを聖くして下さっておられる。父なる神は、みことばなる主キリストを与えて私たちを、「既に」、父なる神のもの・豊かな「実」 を結び得る枝としてくださっておられる、と主は仰せなのです。

  主が私たちにみことばをくださる、それはみことばなる主ご自身をくださることに他なりません。みことばなる主は、聖霊なる主ご 自身でもあります。

「わたしの話したことばによって、あなたがたは既に清くなっている。」

  事柄は明確です。私たちを聖くすることがおできになるのは聖霊のみ。つまり、主は、ご自身であるみことば・ご聖体を私たちにお与えくだ さることによって私たちに聖霊をお与えになり、聖霊によって「既に」、私たちを神のものにふさわしく聖くして下さっておられると仰っておら れるのです。いつ、どこで?もちろん、ごミサで。

  主の「ぶどうの木のたとえ」は、最後の晩餐での主の説教の一節です。そこで主が繰り返しておられたことは、主は、最後の晩餐を経て十 字架で裂かれ、私たちに与えられる主ご自身、即ちご聖体において、私たちに聖霊を下さる、ということです。

  主のみことば・主のご聖体において主から聖霊を頂いた私たちは、聖霊の働きによって既に聖くされている、と主は仰せです。ただしそれは 私たち自身のみならず、私たちを通して多くの人が、主から同じいのちの水を頂いて豊かに生きるためです。

  父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。  



(「主日の福音の黙想」より)



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