福音の黙想「あなたの信仰があなたを救った」
「(わたしの)娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

マルコ5・21~43

川越教会担当司祭 ヨハネ 加藤 智 神父


  マルコによる福音第5章は、主キリストと二人の女性との出会いを伝えています。ひとりは、ユダヤの会堂の責任者ヤ イロの娘であり、もう一人は、「十二年間も出血の止まらなかった女」と、福音が伝える女性です。ただし、なぜ、「長 血を患っていた女性」の物語が、ヤイロの娘の物語の中で、入れ子のように語られるのでしょうか。

  ヤイロの娘の物語は、明らかに死と復活の物語です。一度は死んだヤイロの娘に、主キリストがふたたび命を与えられた、 主の奇跡を語ります。そうであれば、この物語に包み込まれるように語られる「長血の女性」の物語も、単なる病気の癒しの 物語ではないのではないでしょうか。この女性も死んでいたのに、主によってふたたび命を与えられた、と福音は伝えようと しているのではないでしょうか。

  この女性に限らず、主が私たちにお会いくださる。それは誰にとっても、主キリストにおける私たち自身の死と復活の 体験ではないでしょうか。死んでいた私に、主が新しい命をお与えくださった。それが主との出会いではないでしょうか。

  ところで、「長血の女性」の物語はこの女性の名前を伝えていません。12年もの間苦しみ続けてきたこの女性を、 彼女の町のだれも気にかけなかったのでしょうか。他者に対してこれ程までに冷淡で無関心な町の人々が、主キリストを取り 巻いています。その彼らをかき分けるようにして、主の後ろから主のみ衣の裾に触れたこの女性。その時、主の弟子たちの中 にさえ彼女を気に留めた者はいませんでした。

  しかし、主キリストは違います。彼女を気に留められただけではありません。彼女に「お会いにな」られたのです。苦しみ 抜いた12年もの間、だれからも気にかけられることのなかったこの女性に、主は、「わたしの娘よ」と呼びかけておられます。

  実は、主キリストは、かつてそのように私たちにもお会いくださっていたのではなかったでしょうか。周りのだれからも 気に留められることもなく、また私たち自身さえ名の無い群衆の中に自分を見失ってしまっていたような生活の中で、主キリス トのみ名を聞き、せめて主のみ衣の裾にでも触れさせて頂きたいと主に心が動いた時、主に、「わたしの娘よ」、と呼びかけら れたのではなかったでしょうか。

  この長血の女性が、主キリストを求めた直接の動機は、病気を癒して欲しいということだったでしょう。しかし、主によっ て癒された時、彼女は「自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、(主キリストのみ前に)震えながら進み出てひれ伏し、 すべてをありのままに話した」と、福音は伝えていました。

  病を癒されたこの女性は、彼女の身に起こった奇跡を喜んだというのではないのです。病を癒してくださった主キリストを 「畏れた」、と福音は伝えます。この時彼女は、病の癒しを得た以上に、父なる神・主なるキリストにお会いした、のです。

  彼女の過去には、神に願い、神を求め続けた長い時があったはずです。しかし、彼女はこの時、初めて、神を畏れたのです。 神が彼女の主であられることを、その身にはっきりと知ったからです。同時にその時、その主なる神が、彼女に父なる神として お会いくださった。それが、主キリストにお会いするということです。

  神を一時の必要として求めることと、神を私たちの生涯の主として受け入れることは、同じではありません。神を私たちの 主である、と畏れをもって受け入れる。その時、神は、私たちに父としてお会いくださる。それを「信仰」と言うのです。

  主キリストは、主を畏れたこの女性に、まことの神・まことの父として、「わたしの娘よ」と、呼びかけられるのです。そ して、「(わたしの)娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

  この女性は、主キリストにおいて神にお会いしたのです。主キリストにおいて、神が、彼女の主、彼女の父として彼女に お会いくださったのです。それが、「あなたの信仰」です。そして、「あなたの信仰があなたを救った」のです。私たちは、 神が私たちの必要に応じてくださることによってではなく、神を私たちの命の主とさせていただくこと、神が父となってくだ さることによって、救われるのだからです。

  主キリストにおいて神にお会いさせていただく。主から「わたしの娘よ」と呼んでいただく。その時、主は私たちにも、 「安心して行きなさい」と、語りかけてくださるに違いありません。そして、「安心(平安)」こそ、私たちの内に主キリス トが聖霊によって結んでくださる確かな信仰の実りです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。  



(「主日の福音の黙想」より)



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