「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」
「新しい道」:主の公現・降誕節の黙想

(マタイによる福音2・1~12)

 川越教会担当司祭 ヨハネ 加藤 智 神父


  東方から来た占星術の学者たちは、聖母マリアさまと共におられた幼子キリストを礼拝した後、「別の道を通って自分たちの国へ 帰って行った」と、福音は伝えます。

 教会は古くから、降誕祭(クリスマス)の夜半のミサから1月6日の主の公現の祭日までを、降誕節の12日間としてお祝いして来ました。 私が長く奉仕しました英国の教会では、降誕祭・夜半のミサ以前のアドベントの期間は、復活祭前のレントの期間のように、静かに落ち 着いた時が流れていました。喜びに満ちた降誕節の祝いは、その夜半のミサで幼子キリストをお迎えして始まり、主の公現日まで続きます。

 降誕節の12日間の祝いの締めくくりである主の公現日。私たちは救いの喜びがユダヤを超えて、東方からの占星術の学者たちに象徴され るユダヤの民以外の諸国の民・全世界の民のものとされたことを、感謝の内に記念します。

 ところで、「東方の占星術の学者」と言う言葉を聞く度に、私は昔の私を思い起こさざるを得ません。私は、仏教に深い御縁を持つ家系 に生を受けた者ですが、仏教、特に密教には、古来、占星術が伝えられています。聖書に登場する「東方の占星術の学者」の「占星術」の 実際は分かりません。しかしそれが「占星術」と言われる以上、それは、普通の人間には隠されているとされる神の秘密ないし奥義を、 人間の知恵を極めて探ろうとする試みのひとつであったに違いありません。

 そのように、聖書の東方の占星術の学者たちも、おそらく先祖代々、人間の知恵の教えを頼りに生き続けて来たのでしょう。主キリスト と出会わせて頂く時までは、彼らにはそれしか真理に至る方法は思い至らなかったと思います。

 しかし、彼らが聖母マリアさまのみ腕に抱かれた幼子キリストを、彼ら自身の目で見、恐らくは、その幼子キリストを、マリアさまのみ 手から彼ら自身の腕に抱き上げさせて頂いた時、彼らは、占星術のような人間の知恵に頼ることの無力さ、その空しさ、無意味さに深く気 付かされたのではないでしょうか。同時に、「神の秘義そのものであられるこの幼子キリスト・まことの神ご自身」の前に、彼らの知恵も 含めて、彼らが頼りにしてきた一切のものが無価値であることを、骨身に沁みて思い知らされたに違いないと思います。

 彼らの占星術も、所詮「人間が神のようになろうとする試み」に他なりません。その空しさ、それに対する彼らの無力さは、かつて私自 身が身に沁みて感じたように、彼ら自身が体験上いちばん良く知っていたはずです。その彼らが主の公現の日に幼子キリストに見たのは、 実に、「神が人となられた」と言う驚嘆すべき事実でした。

 その時まで、占星術の学者たちは、神に近づくための特別な力と秘密の知恵を得るために、その代償として彼らに多大な犠牲を強いる存 在を「神」と信じて礼拝してきたと思います。しかし、この幼子キリストにおいて「人となられた神」は、彼らに何らの犠牲も求めはしま せん。全くその逆です。神ご自身が主キリストにおいて、犠牲としてご自身を彼らに捧げてくださるのです。十字架に至るまで。

 彼らはこの時初めて「真実の神」を知り、従って、真実の神に「真実の礼拝」を捧げたはずです。驚くべきことに、神ご自身の犠牲奉献 がまず先にある。神がご自身を私たちにお与えくださって、既に、礼拝の中心になってくださっておられるのです。それが幼子キリストで す。それをはっきりと知らされた時、東方の占星術の学者たちは、彼らの持てるもの全てを捧げて、否、彼ら自身を神に捧げて、主なる神 キリストを礼拝したはずです。幼子キリストにおいて、彼らにご自身をお与えになっておられる、まことにして唯一の神を。

 マタイによる福音は、彼らは、幼子キリストにお会いした後、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、伝えます。彼らは、 最早、「占星術の学者」と呼ばれ続けるわけには行きません。また、そのように生き続けるわけにも行きません。主キリストにお会いした 彼らは、かつての彼らと同じではあり得ません。彼らは、既に「キリストのもの」とされたからです。

 主キリストにお会いした後には、最早、誰も「もと来た道」を再び辿って帰るわけには行かないのです。否、そのような道を再び辿らな くても良くなったのです。「神が人となられた」主キリストの前に、「人が神になろうとする」ような、永遠に報われようの無い、虚ろな 苦行のような偽善的な人生から、彼らはここに初めて全く自由にされました。かつての私自身が、そうであったように。

 主のご降誕を祝った私たちも、主キリストによって「神が人となられた」新しい世界に、既に招き入れられています。東方の学者と共に 私たちも、主において神ご自身を祝福として受け、神を恵みとして生きる「新しい道」を歩き始めてよいのです。

 父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。



(「主日の福音の黙想」より)



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