「信仰の神秘」
四旬節の黙想
川越教会担当司祭 ヨハネ 加藤 智 神父
ご一緒に福音にお聞きしながら、今年も四旬節を歩ませていただきたいと思います。それは、ちょうど主キリストに伴って、主とともに、
福音に語られる人々との出会いを重ねる旅のようでもあると思います。
主キリストの出会われた一人ひとりの辿った人生は異なっていました。その中には、主を信じ、主に自分たちを委ねていった多くの人々がいました。
しかし、主のみことばを聞き、主のみ業に与りながらも、なお主を疑い、イエズスさまを主キリストとして受け入れることができなかった人々もいました。
あるいは、エルサレムの群衆のように、ひとたびはイエズスさまを救い主キリストと歓喜の声をもって迎えたにもかかわらず、その同じ週の内に、
その同じ主キリストを、「十字架につけよ」と叫んだ人々もいました。
これらの人々の内、いったい誰がこの私なのでしょうか。実際は、そのすべての人々がこの私の姿である、あるいはあった、というべきかもしれません。
復活の主キリストの使徒パウロは、「聖霊によらなければ、だれもイエズスは主である、と信じることはできない」(Iコリント12:3)と告白しています。
その通りだと思います。私たちがもし、喜んで主キリストを信じさせていただいているというのであれば、それはひとえに、
聖霊なる神の恵みであり、聖霊の御導きであると思います。
たとえば私のようにキリスト教とは縁もゆかりもないどころか仏門に生まれた者が、手探りのような歩みの末、今、
イエズスさまを神なる主キリストと信じさせていただいているということは、これは神の恵みによるとしか言いようのないことです。
事実、主イエズス・キリストを信じさせていただくと言うことは、とても重いことです。なぜなら、聖書においては、神を信じられず神を疑うことを罪というからです。
神に対する罪とは、何か悪いことをするということよりも、神を疑うことです。主を疑うことは、神を心底から信じることができない、
主なる神キリストに自分を委ね切ることができない、ということです。そこにはまことの平安はありません。
主キリストの時代の律法学者やファリサイ派の人々がそうでした。彼らは、約束されていた主キリストを、そして主における真の平安を、
熱心に待ち望んでいたはずの人々でした。しかし、彼らはイエズスさまにお会いした時に、彼を主キリストと受け入れることができませんでした。
自分たちを主に委ねることができなかったのです。イエズスさまを疑ったからです。それを、罪というのです。そして、そこには真の平安はない。
主は、それを、彼らのために本当に悲しまれたに違いありません。
そのような主を疑う私たちのただ中で、その私たちの罪のために、黙々と十字架を負って歩まれる主イエズス・キリスト。
四旬節の間中、主キリストとともに、たくさんの人々に出会い続けてゆくであろう中で、実は、私たちは、私たち自身に、また同時にキリストご自身に、
くり返し出会わせていただいて行くのではないでしょうか。主を疑う私、に。そして、そのような私のために、主を疑う私の罪を一身にご自身の十字架として背負い、
背負い抜いてくださる主イエズス・キリスト、に。
主キリストを疑ったがゆえに、かつては主に捧げる何物も用意できなかった私。しかし、主は、その私のために、十字架の死に至るまで、
ご自身の一切を、ご自身の御からだとその御血の最後の一滴に至るまで与え尽くしてくださいました。十字架の主キリストは、私の疑いの罪を破り、
私に信仰をお与えくださる唯一の神です。
「信仰の神秘」。それは、主キリストが、罪の私に「信仰」をお与えくださった、否、主ご自身が私の「信仰」となってくださった、
ということです。どこまでも神を疑うこの私が、主なる神キリストを信じさせていただくには、それしか無かったのです。
主の十字架。ここに初めて、そして最終的に、私たちの神への疑いが破られ、私たちが神を信じ、私たち自身を神に委ね切り、
私たちを神に捧げつくして生きて行くことがゆるされる新しいいのちが、私たちの身の事実とされたのです。それが、「信仰」です。
「信仰はまさに神秘」です。
「聖霊なる神」すなわち活ける主キリストによらなければ、だれも「信仰」をいただくことはできないと、パウロは私たちに教えています。
聖霊は、受難と十字架を経てご復活の栄光に過ぎ越された主キリストからいただく、主ご自身のいのちです。
主キリストは私たちの疑いの罪を破り、ご自身が私たちの信仰となってくださるために、ご自身のいのちそのものを惜しみなく私たちにお与えくださいます。
ご聖体、すなわちご自身の御からだにおいて。それがごミサです。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
(「主日の福音の黙想」より)
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