聖母さまの被昇天の祭日(8月15日)の黙想「天の食卓に迎え入れられて」
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

ルカ1・39~56

川越教会担当司祭 ヨハネ 加藤 智 神父


  聖母さまのこのおことばは、「聖母被昇天」の祭日の「集会祈願」の祈りのように、後に「からだも魂もともに天の栄光に上げられた」 「神の母」聖マリアさまの喜びを、聖霊により御子キリストを身籠られたその時から、すでに先取りしているようです。

  実は御子キリストは、ご自身の十字架と、十字架に続くご復活とご昇天を前にして、聖母さまと弟子たちに次のように約束されておられました。 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32)

  5世紀に遡る「聖母被昇天」の祭日。それは、御子キリストが、ご自身のこのお約束を、だれよりも愛しかつ誰にも優って感謝してやまないご 自身の「母」マリアさまに、私たちすべてに先んじて最初に成就されたことの記念です。

  ところで、聖母さまが御子キリストによって「上げられた」「天の栄光」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「父・子・聖霊」の 「三位一体の神」の「聖なるいのちの交わり」のことです。その「天の栄光」は、教会の伝統では、ロシアのリュブリョフの有名なイコンのように、 「至聖三者」である「父と子と聖霊」の「天の食卓(の交わり)」として描かれて来ました。そうであれば、聖母さまが「天の栄光に上げられた」とは、 聖母さまが「天」にある「父・子・聖霊の三位一体の神」の「聖なる交わり(食卓)」の内に、大切に、かつ感謝をもって迎え入れられたということです。

  聖母さまが、三位一体の神の天の食卓に迎え入れられる。これは、「天の父なる神」の祝福とご意志を、「おことば通り、この身に成りますように」 と受け入れ、「聖霊なる神」に満たされて神の独り子を身籠り、「御子なる神キリスト」を産み育てられ、「三位にして一体なる神の母」としての誠 実なご奉仕を地上で終えられた後、天にて聖母さまのご労苦に報いるにまことにふさわしいことでしょう。

  私たちがご聖体として拝領する「受肉された神なる主キリスト」を身籠り、産んでくださった聖母さまは、そのことによって「天の父なる神」、 「御子なる神キリスト」、「聖霊なる神」に、すなわち「三位一体の神」のすべての位格に「母」としてお仕えになられました。

  聖母さまは、天の「三位一体の神の交わり」に迎えられる日まで、「神の母」として、天の神の祝福に包まれ、聖霊に導かれ、御子なる神・ 主キリストのおことばとみ業を「すべて心に納めて」行かれました(ルカ2:51)。それは御子とともに過ごされた日々のみならず、主キリス トの十字架の死からご復活の栄光の日々を経て、聖霊なる神のみ業である教会の草創の日々に至るまで変わることはありませんでした。

  主キリストが「受肉された神」ご自身であることを、ご聖体の秘跡・ミサ聖祭の体験を通して「知る」カトリック教会は、主の「受肉の秘義」 に「母」とされることによってお仕えされた聖母さまを、「偉大な人キリストの母」としてではなく、「受肉された御子なる神」の「母」、 すなわち「神の母」と、確信と感謝と喜びをもってお呼びさせていただいて参りました。しかし、実は、このことはごミサを離れては、決して 自明のことではありません。

  事実、約300年間の迫害の時を、カタコンベでごミサを死守した教会でしたが、4世紀初頭コンスタンチヌス大帝により教会が公認され、 保護されるようになると、ミサを離れた観念的な議論で教会を混乱させる人々が現れました。彼らは、聖母さまによる受肉の秘義を認めず、従って 主キリストを受肉された神と認めず、聖母さまも「偉大なる人イエスの母」に過ぎず「神の母」ではないと主張しました。ミサのご聖体において 「受肉された神キリスト」を畏れと感謝をもって拝領する体験を欠き、主を理念的にしか理解できない人々には、これはやむをえないことかもしれません。

  加えて、御子キリストが、ご自身の母・マリアさまを、父の許に上られる十字架の上から、私たちにも「母」としてお与えくださった恵みを 忘れるわけには行きせん。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)

  それは、私たちが「神の母」聖マリアさまに抱かれて、「三位一体の神」の祝福の内に新たに生まれることを、御子なる主キリストが切に 願われてのことに違いありません。そして、事実、「神の母」聖マリアさまは、私たちの母として、私たちを「三位一体の神の交わり」の内に、すなわち 「永遠のいのち」の内に産んでくださいます。それは、聖母さまのように、私たちもまた、「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の至聖三者なる神の食卓 (の交わり)」に迎え入れられることでもあります。

  「神の母」聖マリアさまを「私たちの母」とも呼ばせていただける幸い。「神の母」聖マリアさま、私たち罪人のために、今も、死を迎える時も、 お祈りください。アーメン。  



(「主日の福音の黙想」より)



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